› なちゅらる・まま  › 2014年10月

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Posted by 滋賀咲くブログ at

2014年10月05日

参加者さんからいただいたメッセージ4

夏休みショートステイin信楽

参加者さんから頂いたメッセージを
ご紹介します

放射能時代をともに生きる仲間に
出会えた事に感謝です
ありがとう!

iconN11はち












私は二児の母で、
私達の住む埼玉北部は
福島第一原発から約200kmのところにあります。
311から3年。
放射能は高くも低くも存在していて、
これからも存在し続けます。
今日ここ近県では、
もう 震災前と同じように過ごしている人々がほとんどで、
私のように出来る限り気をつけたいと思っている人は
信じ難いくらいにとても 少ないです。


311の当日、娘は保育園でした。
当時 2歳9ヶ月。
あの日から半年程の間、
繰り返す余震のたびに飛び上がって私の元へ駆けつけて震えていました。
私の本当の苦しみは、
311のあと間もなく直面することとなった「放射能汚染 」、
という現実を知った時から始まりました。

日々 湧き上がる不安と疑問。
移住か、それともここに残るべきなのか。
何故このように苦しまなくてはならなくなったのかという怒り。
こんな日々の苦しみが伝わらない孤独。
心身がバラバラになってしまうのではないかと感じている中、
心労から幾度か倒れてしまう有様でした。
そして、妊娠。
わかった時は なんでこんな時に、と生むことが不可能に思えました。
でも産科初診のモニターに映った小さな命を見て、
やはりとても可愛くて 嬉しくて この子に逢いたくて、
いつまでも恐怖に支配されてはいけない、と気づかされたのです。


その後 私ども母子で出来ることとして「保養」に、
行くようになったのは私の悪阻が落ち着いた2012年の初夏です。
その時、娘は丁度4歳になりました。
下の息子は9ヶ月に差し掛かる妊婦である私のお腹の中で、
私は密かにそのまま保養先で出産し、
母子疎開をしてしまおうかという思惑もありましたが、
娘が最後の頃に「パパ、逢いたいよー!」と
連日寝付く前に大泣きする姿を見て 「帰るしかない」 と、
自分の中の不安を抱えたまま、祈るような気持ちで帰りました。

それから春と夏の娘の休みが来る前に、
毎回 また子ども達を連れて行くのか、行けるのか、と自問が始まります。
毎回子ども達を私1人で連れて行くことも、
やり繰りも、決して楽なことではありません。
だけど結局、こどもの被曝を少しでも軽減してあげたい、
自分が放射能を気にしないで済む時空に逃れたい、
そんな想いが溢れ出してきて、夜なべの保養先探しをして、
受け入れていただく、という事を繰り返してきました。
そして保養に行くと解放される心の反動なのか、
戻ってからの数週間は、「なぜ戻ってきてしまったの?」
という気持ちでやりきれない気持ちになるのも
毎度のことのようで変わらずに、3年が経ちます。


いく度目かの保養になってくると、
私達をこのように両手を広げて受け入れてくれるこの保養って、
放射能の保養だけにはおさまらない何かある、
と考えることが多くなってきました。
今感じるのは、私にとっての保養は大袈裟なようですが、
今の世にもある 人の善意を与えてもらえる「愛」と「希望」であり、
生きて行ける と思える「楔」であり、
心身を癒せる「シェルター」であり、
人の生き様を考えるための「学び」のよう、ということです。
そして、
子ども達にとっても保養先で身体を癒すことはもちろん大事ですが、
それと同じくらいに心の中に残る色々の想い出は、
きっとこれからの彼らの人生の礎になることと思います。

だからこそ この保養という体験を重ねる人々の心に
何か未来を照らす芽が育つまで
どうかこの保養の場がこの世から無くなりませんように!
と、いつの日か子ども達がこのように
人々の善意に支えられて来たことに気づき
健全な世の中を作れる大人に成長してくれるように!
と、願うようになりました。


311から3年。
311が私達から奪って行ったものもあります。
ですが311が気づかせてくれたもののお陰で、
今ようやっと、これから本当にどうしていくべきかな、
と考え始めた自分がいます。
何を残していくのか、
生きることの根本に考えることを置き去りにしてしまったこの時代に、
同じ気づきを持った人々同志が
今繋がって行くことで時代の流れを変えていこう。
行くしかないのですね。
こどもたちの未来のために。

このように思えるようになったのも、
こうして保養に行くことで出逢えたみんながいるからです。


言葉にしきれない「ありがとう」をみんなに伝えられたら。
その想いに 日々、私は支えられています。